
『他人の期待に応えられなくても、自分の期待には応えたい』
「自分に期待する」
前向きな言葉に聞こえるけれど、諸刃の剣として自分に返ってくることもある。私はそれで頻繁に悩んでしまうので、書きながら考えていこうと思う。
「自分に期待する」とはどういう状態のことなのか?
自分への期待値が高い状態、つまり理想が高い状態。
「会社でこれくらい仕事をこなせるだろう」「重要なポジションにも抜擢されるだろう」「上司や社長からも気に入られるだろう」「同僚とも仲良く会話できるだろう」…そういいったイメージを強く持っていて、達成するための努力も怠らない。(なぜか自分なら絶対できるはずだという謎の自信がある)
ある意味すごく前向きである。無理かもしれない、失敗するかもしれないという不安や心配は、ひとまず意識の奥の方に引っ込んでいる(無いわけではなく「自分はできる」という思考を強化するために蓋をされている。これがマズイのだけれど…)
自分への期待が実現しなかったとき。
期待値が高ければ高いほど、研ぎ澄まされた諸刃の剣として自分に返ってくる。その落差に落ち込んでしまう。自分で高いハードルを(きっと跳べるはずだと)設定して、見事に足をひっかけて転ぶ。もしくは高いハードルを目前にして足がすくみ、動けなくなってしまう。
私は会社の上司に対して「もう少し距離の近いコミュニケーションをしたほうがいい。自分ならできるはずだ」と謎の目標を掲げていたのだけれど、先日その上司と二人になった時、数十秒間の完璧な沈黙が流れた(何か楽しく会話しなくては、できるはずだという自分への期待がプレッシャーとなり身動きが取れなくなってしまった)
向こうはたいして気にしていない可能性も高い。たかが数十秒。しかし自分には「できるはずのことができなかった」「やるべきことに挑戦できなかった」という実感だけが残り、いつまでも後悔しダメージを蓄積していく。
自分に期待なんてしないほうがいいのか?
そんな憂鬱な思いをするくらいなら、自分に期待なんてしない方がいいのだろうか。「自分はたいして何もできない」「挑戦しないほうが心が平穏だし、仕事でも完璧にこなすより時々ミスするくらいの方が周りからのハードルも下がってやりやすい。無茶な仕事も回ってこなくなる」そんなふうに考えれば楽になるのか?ここはあえてNOと書いておきたいと思う。前向きな気持ちで挑戦したり、自分を信じること自体を否定しなくてよい。少なくとも私はそう思う。重要なのは「何のために」自分に期待するのか?
他人からの評価にすがってしまう問題。
先述の上司とのコミュニケーションの件で言えば、失敗したと落ち込んでしまうのは「嫌われてしまったかも」「こいつ喋らないやつだな、コミュニケーション苦手なのかもな、と思われてしまったかも」というあくまで相手からの評価に依存してしまっているから。いわゆる自己ニーズではなく、他者ニーズに支配されてしまっている。「人からの評価」…人間関係の悩みの多くはここにたどり着く。
「人から褒められるために自分に期待する」という矛盾。
「こんな自分になりたい、なれるはず、なれるように頑張る!」と自分に期待をした時、果たしてその「自分像」は誰が求めているものなのか?一旦、足を止めて考えてみよう。私の場合その多くが「他人が望む自分」なのである。「社員として売上アップに奮闘する自分」「社内の円滑なコミュニケーションのために周囲との会話を欠かさない自分」…前向きにバリバリ働いている姿をどれだけイメージしても、結局そのどれもが、会社の上司や社長が求める自分である。つまり「他者から褒められるため、評価されるために自分に期待する」という破綻した理屈を作り上げてしまっている(特に会社という場所は「常に他者評価に晒され、その見返りとして金銭を得る」という要素が強い。無意識にこの思考に陥りやすい。
自分のために、自分に期待する。
言葉にすると当たり前でとても単純なことなのに、実践するのはいかに難しいか。書けば書くほど実感することになってしまったけれど、
自分1人だけで、他者との利害関係がないことに取り組んでみる
これは一つの処方箋だと思う。会社ではむずかしいかもしれないし、情報過多の生活では他者からどう見られるか?という思考から完全には自由になれない。スマホやテレビからなるべく距離を置き、自分が本当に期待する、なりたい姿をイメージして、それに近づけるようにちょっとずつ負荷をかけていこう。急ぐ必要はない。自分一人で自分に期待して、自分一人で勝手にそこに向かっていく。世の中の誰かの評価は入り込ませないよう注意をはらいながら…。